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小説【みかづき】の舞台【八千代台】の過去と現在の物語

八千代台駅

小説【みかづき】の舞台に出てくる八千代台について、本日はちょっとした歴史について書かせて頂きます。

どうぞよろしくお願い致します。

小説【みかづき】の舞台【八千代台】の過去と現在

八千代台ニュータウン

八千代台の歴史

 江戸期、八千代市域を通る主な交通は佐倉街道(現在の成田街道・国道296号線)でした。
譜代大名の治める佐倉へと通じるこの街道は、船橋で千葉街道と別れて八千代を通ると佐倉へ達します。

こう書くと地方の城下町へ通じるただの街道なのですが、佐倉の西北には成田がありました。

現在もそうであるように、成田山への参詣客は江戸期から多く、佐倉街道はそれなりににぎわったといいます。

そんな佐倉街道の八千代市内にある宿場が大和田宿でした。
もちろん、五街道の宿場町ほどではなかったそうですが、1日あたり50人ほどの旅人が宿泊していたと伝えられています。

現在も佐倉から船橋へ短絡する国道296号線の交通量はとても多く、よく込み合っています。
大和田宿を除いた八千代市内は西に小金牧と呼ばれる幕府が使う馬を育てる牧場があり、北は印旛沼に隣接した湿地帯でした。
(上記の牧場のお話も「みかづき」の授業で勝見先生が生徒に話されてましたね!)

江戸期には何度も印旛沼の干拓が試みられますが、いずれも失敗し、昭和に入ってから大和田排水機場ができるのを待たなければなりませんでした。

さて、明治期に入ると小金牧は存在意義を失い、代わりに軍事演習場へと変わっていきます。

現在も一部は自衛隊の基地として名残を残していますが、当時は一帯が大きな軍事演習場となっていました。
また、沼の近くでも軍事演習場でもないところは台地だったために耕作地や山林となっていました。

大正期には大和田宿の中心にあたる大和田村の南側に京成電鉄の「大和田駅」が開業します。
普通列車がときどきやってきて、朝は行商の女性を乗せて東京へ向かうというのどかなものだったようです。

このように、太平洋戦争終結直後までは大和田宿(のちに大和田村を経て大和田町)を中心とした純農村地帯でした。

さて、1950年代中ごろに進められた昭和の大合併により、大和田町周辺の地域も合併することとなります。

まずは大和田町と西北の睦村が合併します。
その合併で新町名が公募されることになります。

新生、双葉、住吉といったたくさんの候補から選ばれたのは「八千代」でした。
これは選定を行った大和田町・睦村の委員により「千代に八千代に」と永く栄えるめでたい名称であったために採用されたそうです。

こうして1954年1月に「八千代町」が誕生しました。
その頃、東京を中心に住宅需要は大いに高まりを見せていました。

千葉でも京葉工業地域の整備推進ということもあり、住宅整備の必要に駆られていました。

そこで白羽の矢が立てられたのが、八千代町南部にある陸軍演習場の跡地でした。
ここは大蔵省から民間に払い下げが行われており、10万坪ほどの土地がまとまって空いていました。

そのため、千葉県では千葉県住宅協会を設立し、1954年から八千代町南部で住宅造成を始めます。
(この3年前に、吾郎と千明は「八千代塾」を開業します。千明は先見の明があったのですね!ここから八千代はどんどん発展していきます!)

公社設立にあたっては、京成電鉄や東武鉄道の資本参加があり、八千代の開発地には京成電鉄の新駅が設けられることになっていました。

1956年に千葉県住宅協会(現在の千葉県住宅供給公社)が中心になって造成した住宅地にいよいよ人々が住み始めます。

公募により「八千代台」と名付けられたこの住宅地には東京から多くの人々が移り住んできました。

当時、分譲された住宅は木造の10~15坪ほどの住宅で2K、2DK、2LDK、3DKのものでした。
また、日本住宅公団(現在の都市再生機構(UR))が八千代台の一部にテラスハウス型の団地を建築し、分譲しています。

八千代市内で住宅開発が行われる中、八千代台は「まち」としてさらに発展していきます。
1962年にはまず八千代台駅の西側に「八千代デパート」ができます。
1974年には8階建ての建物になり、現在ではアピアビルとして本屋や生鮮食料品店などを抱えています。

そして1977年には駅前に京成系の商業施設「ユアエルム京成」が開業します。核店舗として長崎屋が誘致され、衣料品や専門店にも力が入った商業施設となりました。1993年には床面積が倍になり、現在も周辺の大型商業施設との競合がありながらもにぎわっています。

こうして発展していった八千代台・そして八千代市ですが、人口の爆発的な伸びの結果として通勤・通学の足である京成電鉄の混雑問題に悩まされます。

八千代台駅は開業当初1日300人弱だった乗降客が20年で6万人を超えるようになりました。その結果として1970年代のラッシュ時間帯にはホームに1万人を超える乗客が押し寄せることになり、都心へ向かう電車も激しい混雑となっていました。

そのため京成電鉄では1971年には八千代台駅から東中山駅の区間特急を新設し、急ピッチで1編成あたりの両数を4両編成から8両編成にするための工事を進めていきます。

一方、八千代市では京成本線の増結だけでは問題の抜本的解決にならないと考えていました。そこで1970年に千葉県や八千代市と似たような鉄道輸送の問題を抱える県内の自治体と共に「千葉県内陸鉄道建設促進期成同盟」を設立します。

その後運輸省(当時)への陳情を行い、ついに1972年、運輸省の諮問機関である都市交通審議会が地下鉄5号線(東西線)の船橋市・八千代市への延伸を答申しました。そして1974年3月には営団地下鉄が東西線延伸の免許申請を行いました。

これと呼応するように、八千代市は都市計画の策定を急ぐことで営団東西線延伸部の建設を急ぎました。

こうして、八千代のまちづくりは次の段階へと進んでいくことになります。

出典:まちの姿

八千代台石碑

八千代台の石碑とテラスハウス

上記の「住宅団地発祥の地」の石碑は、京成八千代台駅西口にあります。

昭和30年に千葉県住宅協会(後の千葉県住宅供給公社)が、戦後の住宅難を解消するため、戦前に陸軍の演習場であった広大な習志野原に注目し、高津新田に、日本で初めてと言われる大規模な住宅団地の造成を行いました。

石碑はそれを記念するために作られたものです。

団地のある地区は八千代台と命名され、新しく駅も作られ、たくさんの平屋作りの戸建てが建てられました。

その一方で、昭和32年に日本住宅公団の手によって、八千代台に千葉県初のテラスハウスが作られました。

テラスハウスとは、隣との境界である壁を共有する低層集合住宅のことです。
その発祥はイギリスと言われ、現在でも「ビクトリア朝」風のレンガ造りの重厚なテラスハウスを現地でたくさん見ることができます。

八千代台のテラスハウスは、外国人設計者によって企画されたと言われ、当時としては最先端の設備を備えていました。

昭和30年代初頭でありながら、全戸に水洗トイレ、風呂が完備されていました。

建物のイメージもモダンで、欧米文化のイメージにあふれる、洒落たデザインが人気でした。
そしてその最大の特徴は、集合住宅でありながら、全戸に専用庭があり、2階建ての構造になっていました。
すなわち、住居を横方向に見れば都市生活であり、縦方向に見れば田園生活が満喫できた訳です。
このようなテラスハウスは、当時大変話題になり、抽選も高倍率であったことかもわかるように、サラリーマンの憧れの的となったのです。

ここに長年お住まいの方のお話によれば、テラスハウスが誕生した昭和30年代には、まだ周囲に家は殆ど無く、夜は谷を挟んだ台地の上にあった習志野開拓団の住居から漏れるランプの明かりが、ぽつりぽつりと見えたそうです。

また、春はワラビなどの山菜もたくさん採れ、夏には近所のクヌギ林にカブトムシがたくさんいたと言うことでした。

一番困ったことは、冬の季節風に舞い上がった、習志野原から来る砂ぼこりで、テーブルの上に字が書けるほどだったと言います。

現在はそのような景色はすっかりなくなりましたが、テラスハウスの魅力は、現在も色あせることはありません。

※ 写真は、昭和32年完成の八千代台住宅のテラスハウス。設計は日本住宅公団。

出典:もっと知りたいふるさと八千代

八千代台テラス

最後に

わたしが調べるより、はるかにきっちりと八千代について調べておられるサイト様がありましたので、そちらを出典させて頂きました。

わたしは、関東の方は全然知らないのですが、その土地の歴史を紐どいてみると大変興味深いものだなあ、と思いました。

八千台も元々は、小説みかづきでも話されていましたが、幕府の馬を育てる土地だったのですね!
それが、戦後にこれだけ発展したんですね!

わたしがとっても見てみたいのが、テラスハウスです。
八千代台の当時のテラスハウスは、白黒の写真しか残っていないのですね。
今もあるのなら、見てみたいな、と思いました。

下記の写真はイギリスのテラスハウスです!
やっぱりレンガ造りは素敵!イギリステラスハウス

ここまでお読み頂きありがとうございました!

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POSTED COMMENT

  1. tanta より:

    その八千代台に住んでいる者です。団地の碑でよく寝ていました。

    • おさるさん より:

      コメントありがとうございます!
      八千代台行ったことがないのですが、団地の碑は、つめたそうで夏場など
      ひんやりして気持ちよさそうですね。
      わたしは、昭和30年代に建てられた、テラスハウスがすごく見てみたいです!

  2. 高月くん より:

    昭和32年頃からまさにそのテラスハウスに住んでいました。しかも、同じ棟の2軒お隣りに「稲越塾」という寺子屋風で進学塾ではない塾に通っていたので、「みかづき」のモデルかも?と思ったくらいです。それでも人口の増加と共に塾の生徒の数も私を含めて2-3名だったものが、6年生になった頃には20-30名ほどにもなり、ご説明にもあった専用庭にプレハブ小屋ができて、学年別・時間制に変りました。
    テラスハウス団地と習志野演習場の間にはホタルが飛ぶような小さな沢や田畑があって、そこで珍しい虫や動物を見つけると稲越先生に名前を教えてもらったりしたので、子供達にとっては格好の自然学習の場でもありました。
    結婚して子供ができた25年ほど前に、家族を連れて久しぶりに八千代台に行きましたが、テラスハウスは半分ほどに縮小されマンションや戸建てになり、私の住んでいた棟もそろそろ売却されるという話でした。もちろん、稲越塾もありませんでした。また、ホタルも飛んでいた小さな沢には住宅が並び、レンガ作りの平屋だった八千代台小学校の校舎は立派な3-4階建てに変ってしまっていました。時の流れとはいえ、少年時代の感受性を育ててくれたあの自然豊かな田園風景が無くなってしまう(しまった)のは確かにさみしいものですね。
    どなたか八千代台小学校の昭和41年3月卒業の方がいらしたら、情報を頂けると幸いです。

    • おさるさん より:

      高月くん様
      長いコメントをお書き頂きありがとうございます。
      大変嬉しいです!
      テラスハウスにお住まいだったのですね。
      しかも蛍が舞っていたってなんて素敵な環境!
      きっとたくさんの楽しい思い出が残っておられるのでしょうね。

      今は、もうきっと蛍も舞ってないんでしょうね。
      わたしの家の近くも畑が多かったのですが年々減っていきます。
      カエルやカタツムリなどもとんと見なくなりました。
      何だかさみしいですね・・・。

      八千代台小学校もレンガ建てだったのですね。
      レンガ建ての校舎って、珍しいし素敵ですね。

      コメントを頂きありがとうございました!

      • 高月くん より:

        ご丁寧に返信いただき、ありがとうございます。こちらこそ、懐かしの八千代台という町名やテラスハウスに触れたコラムを用意いただいて、とてもうれしかったです。今後ともよろしくお願いいたします! 

        • おさるさん より:

          高月くん様
          こちらこそ、コメント頂きありがとうございました。
          高月くん様のコメントを頂き、いつか八千代台に行ってみたいなあと思いました!

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